教育運動交流の広場

ゆきとどいた教育の実現をめざす取り組み、授業実践、学級づくり、学校づくり、PTA活動、地域と結びついた取り組みなどを交流する広場にしたいのです。道教組組合員のみなさんの積極的な参加をお願いするとともに、道教組には入っていない方も大歓迎です。さらに、保護者・地域の方々の取り組みも交流できるといいなあと考えています。                            

(2013/12/26) クレスコ2014・1月号に内藤修司さん(宗谷教組)が寄稿

「地域のほんものにふれ、 子どもたちは まちの主人公になる」

 北海道の最北端・宗谷管内には、学校が地域・保護者とともに教育実践を紡いできた財産がたくさんあります。子どもの減少による学校の統廃合がすすむなか、「おらがマチの学校は地域の中心だ」と地域のみなさんに思ってもらえることは、子どもたちにとって幸せなことです。今回は、地域のみなさんとともに子どもたちが自然や文化を学んでいる実践をご紹介します。

 

猿払村の

「どろんこ広場」

 

水揚げ日本一を誇るほたで漁と酪農を基幹産業とする猿払村。35年前、青年教師たちは「子どもたちに豊かな自然体験を!」と、「どろんこ広場」という体験活動の場を立ち上げました。現在は、村のPTA連合会を中心とする実行委員会が組織され、「子どもたちの健全で豊かな心を育むため、各学校と父母の共同によっておこなわれる子育て活動」として、小学5・6年、中学1年を対象としてとりくまれでいます。

 活動は実行委員会(教職員・保護者)と、協力員(当日のお手伝いの方々)が中心となっておこなわれます。漁師さんや地元のカヌーの会のみなさん、さらには、「昔の子どもたち」が親世代となって運営を手伝っているのも、地域に根づき、長い間とりくみをしてきたことを物語ります。今年は子どもたちの希望をもとに、4コースでおこなわれました。

 

 ① 浜遊び・海釣り体験……海釣り、かまど造り、調理(石狩汁)、浜遊び

 ② カヌー・エビとりコース……カヌー、エビ取り、調理(エビ天ぷら)

 ③ 森や野原を楽しもう……枝打ち、火起こし、飯ごう炊さん、五右衛門風呂など

 ④ ワクワクミルクロード……パン・バター・プリン・ピザづくり

 

 

 酪農・漁業に従事する家鹿の子どもたちは、暦に関わらず家庭の仕事のお手伝いをしたり家で過ごすことが多く、外出して自然にふれたり、仲間と関わる体験をする機会が少なくなりがちです。そうした意味でも、「どろんこ広場」は子どもたちにとって有意義な活動になっています。さらに、自然豊かな道北の大地、猿払村で暮らす子どもたちにとって、「ここに住んでいるからこそできる活動」を体験できることは、村を見つめる大切な機会になっています。

まちの文化で-致団結!

枝幸中学校文化祭

「夢想漣えさしコンテスト」

 

枝幸町はカニの水揚げ日本一を誇る漁業の町。枝幸中学校では、10年ほど前から、文化祭で地域の文化を取り入れた活動をおこなっています。

 北海道の初夏の風物詩、YOSAKOIソーラン祭りで2010年・2011年に大賞、2012年に準大賞に輝いた強豪チーム「夢想漣えさし」。地元の産業まつり「枝幸かにまつり」や、厳島神社奉納演舞、地元の老人ホームへの訪問など地域に根ざした活動をされています。漁師の生き様をテーマにした演舞が観る人の心をひきつける、歴史あるチームです。

 枝幸中学校の文化祭では以前から学級ごとに踊りなどを発表するとりくみがありましたが、10年ほど前から少しずつ、どの学級も「夢想漣えさし」の演舞をするようになりました。そして3年前から、「夢想漣えさしコンテスト」として、夢想漣えさしのみなさんを審査員に招くなどの工夫をしながら、現在の形になりました。

「学級の団結を高め、家族や地域の方に感謝とともに、感動を届けたい」と、子どもたちは演舞としてのパフォーマンスだけではなく、仲間どうし、そして地域の方との関わり、学びあいをとおして大きく成長します。夢想漣えさしのみなさんによる講習会や、プロジェクトのリーダーを中心とした仲間を大切にする学びあいをとおして子どもたちは高まっていきます。

 文化祭は、1年間のなかで子どもたちの集中が最も高まっていく時期です。演舞の上手さだけではなく、ひとつのことに夢中になることから身につくこと、泣いて笑って時には怒りながら仲間と真剣に向きあうことから成長していきます。

 卒業した子どもたちが夢想漣えさしに加入して演舞を続けていたり、入学したばかりの子が「夢想漣の〇〇年の演舞を文化祭でやりたい!」と決意していることもあります。地域の方々とともに長い間とりくんできた活動が、枝幸中学校の学校文化になってきていると感じる瞬間です。

 

地域のほんものに学ぶ子どもたち

 

 戦後の教育実践家・東井義雄氏は、著書『村を育てる学力』のなかで、単に子どもたちのそばにあるだけの「もの」や「こと」でも、すぐれた指導者によって「自分のこと」になり、こうした営みを土台として「村を育てる学力」を育めるとしています。

 今回紹介した2つの実践は、まさに「村を育てる学力」につながる貴重な実践です。実践をとおして子どもたちは地域と関わり本物を学びます。家や学校の日常だけでは学びえない経験です。そのために私たち教師が、目の前の子どもたちと地域を見つめ、学校を支えてくれる地域をつなぐ実践を紡ぐ視点も大切です。教師自身が感性を研ぎ澄ませ、学びあう経験を大切にすることで、こうした実践が紡ぎ出されているのです。

檜山で「ふくしまキッズ」受け入れ(檜山教組「ひやま」第7号より転載)

 この夏、NPO法人などでつくるふくしまキッズ実行委員会主催の「ふくしまキッズ夏季林間学校」がここ檜山の地で行われました。「福島県内在住の子どもたちや保護者の方々は震災以後の放射線の影響に関し、錯綜する情報の中で様々なストレスやフラストレーションを持っている。それを少しでも解消すること」を目的としたものです。檜山教組も「少しでもお役に立てれば」と、受け入れサポーターとしての参加を組合員に呼びかけました。そして、檜山教組から2名、渡島教組から1名がサポーターとして参加しました。

 ふくしまの子どもたちの楽しみは、何も気にせず外で思いっきり遊ぶこと。そのことが参加する際のメッセージにたくさん書かれていました。また、同時に、いま、福島の地で子どもたちがどういう状況下にいるのか、そして、親たちはどういう思いでいるのかも切々と伝わるメッセージになっていました。(手紙の掲載は、実行委員会から了解済みです)

放射能を気にせず外で思いっきり

 北海道のお世話になる方へ
平成23年3月11日、東日本大しん災のあと、福島第1原発の事故が起きてから、ぼくの生活は、いままでと変わってしまいました。
 ぼくは、小学校2年生から野球をやっています。毎週土日、外で練習をしていました。
でも、去年は、練習もなくなり、試合に出ることもなくなってしまいました。
 今年になって4月からやっと外で練習をするようになったけど、練習する時間は前より短くなりました。もっと練習がしたいし、もっと野球がうまくなりたいです。でも、大人の人たちはぼくたちの体のことを考えて、あまり外で活動をすることを笑顔で「いいよ」って言ってくれないのがとてもさみしいです。前みたいに外で思いっきり野球をやりたいです。
 あと、危険な場所と書いてあるところも早くなくなってほしいです。
 これから、北海道にいる間、放射能のことも気にしないで外で思いっきり遊びたいです。

                        福島市立A小学校 Bさん


福島に残った親御さんからの手紙・・・「長期の休みの期間中だけでも普通の日常をさせたい」

 お世話になっております。冬、春に続いて今夏3度目の参加となります。冬も春も北海道からもどった日には、食事の時間も惜しんで夜遅くまで体験した出来事を話してくれました。そして最後には、「あーあ、また明日から外で遊べないのか……」と意気消沈で終わります。
 毎日あるごく普通の日常。朝は集団登校し「おはようございます」の元気な声がある光景。放課後、校庭で走り、ボールを追いかける光景。友だちと自転車に乗り公園で遊ぶ光景。ごくごく普通の日常がいまは見ることができません。……間違いなく子どもたちには責任はありません。すべて大人たちの身勝手ないい分だけで、その現実は子どもたちに重荷を背負わしているだけなのです。これでいいの?もちろん十人いれば十の意見がある。当たり前だ。危険という声あれば安全という声もある。テレビや新聞では毎日のように放射線の数値が発表されている。私たちは、もうそれに慣れっこになっている。しかし十年、二十年後子どもたちにどう影響があるのか?未来の見えぬ結果に対して責任を持ってくれる人は誰もいない。親以外に……。親は、もちろん今できる一番ベストな選択をする。それが福島県からの避難であったり、この「ふくしまキッズ」なのです。
 原発から24㎞。今年も田んぼには草が生い茂り、寸断されたJR線にも草が茂り始めました。子どもの数は事故前の半分以下。福島を出るのも地獄、残るも地獄。避難している方ものかった方も真剣に悩み、苦しんでいるのです。私たち親子は、いろんな事情でこの地を出ることはできません。イコール子どもに大きな負担を強いている結果となっています。
 せめて、せめて、長期の休みの期間中だけでも普通の日常をさせたい。こんな心境です。
 今回もまた、北海道から帰ってきたら食事をする暇も惜しんで話をすることでしょう。そんな我が子を見て涙が止まらない親がここにいます。何とも不甲斐なく、情けなく、そして弱々しいです。
 勝手なことばかり書きましたが、まもなくお世話になります。
 ご協力下さっている地域の皆様、ボランティアの皆様、事務局、ふくしまキッズスタッフの皆様、ご支援いただいています多くの皆様に感謝申し上げまして、終わらせていただきます。
  2012年7月                     福島県南相馬市 Cさん

◎ 教育のつどい・・・カラー版速報です(集会の様子がよく伝わってきます)

教育のつどい速報1.pdf
PDFファイル 4.8 MB
教育のつどい速報5.pdf
PDFファイル 6.4 MB

「教育のつどい」終了後、「しんぶん赤旗」で、分科会「今日の教育改革ーーその焦点と課題」で、稚内市の潮見が丘中学校の元PTA会長・「父親ネットワーク北海道」会長の丸山修さんの報告が大きく紹介されています。

詳しくは、下のPDFを開いてご覧下さい。

 

教育のつどい「PTA活動は教育力の最大の応援団」.pdf
PDFファイル 273.0 KB
教育のつどい速報2.pdf
PDFファイル 4.5 MB
教育のつどい速報6.pdf
PDFファイル 6.8 MB
教育のつどい速報3.pdf
PDFファイル 4.5 MB
教育のつどい速報 緊急集会.pdf
PDFファイル 2.8 MB
教育のつどい速報4.pdf
PDFファイル 3.5 MB
教育のつどい速報7.pdf
PDFファイル 7.9 MB

今年の「教育のつどい2012」に参加したレポーターは次の通りです。

分科会 研究発表者 所属 レポート題名 
社会科教育  笹本裕一  全釧路教組  「天然痘は鳥になってやってくる」実践の記録 
数学教育 大竹宏周  空知教組  学力という名のもとに
美術教育 森博則  檜山教組  デザインを卒業式の装飾に生かす!
家庭科教育 日下恵子  檜山教組  北檜山中 「自立」の意味はもっと深い?! 
障害児教育  遠藤美由樹  檜山教組  生活に生かす 数を実感する算数の授業をめざして 
学校づくり 川越岳人 宗谷教組  みんなで創る「ふるさと母校」
教育条件確立の運動 笹谷透 檜山教組  「学校徴収金」を考える
環境・公害問題と教育 大浦康宏 根室教組  自然遺産知床について考える中学地理の授業
教育課程・教科書 牧野武博 宗谷教組 ふるさとに学ぶ産業教育
生活科・総合学習 山本民 宗谷教組 子どもがマチの未来を語る
今日の教育改革 保護者・一般 ※※※※ PTA活動は教育力の最大の応援団

◎ 研究発表者の発表資料(レポートほか)は、「つどい」終了後、PDFでここから開けるようにする予定です。

 「被災地の今」 フィールドワーク参加レポート

          平成24年2月25日~26日 宮城県建設会館、石巻市近郊

                                杉本 真樹(宗谷教組:枝幸小)


 8月、石巻市内での復興ボランティアに参加させていただきました。わずか5日間ほどの滞在で4日間の作業でしたが、自分なりに考える機会となりました。全校朝会の際に報告の時間を頂き、町研サークルや近隣校での道徳・総合の時間をお借りして、自分の見て感じたことを伝える時間を頂きました。
 間もなく震災から1年が経とうとしています。枝幸小学校の児童会が中心となった募金は石巻市内の学校に届き、校長先生からのお礼の手紙も届きました。学校の活動や自分たちの活動が、被災地の方々の元気に少しでもつながることはとてもうれしいことです。
ただ、メディアからの報道機会は大きく減ってきました。原発の報道があっても政治色が感じられ、現地の先生方や子どもたちがどのように考え、どのように生きているのかが伝わりにくくなってきた気がします。現地に行ったはずの私も、被災地の事を考えることはなくなり、自分が地震で痛い目に遭ったにもかかわらず、日々の備えすらできていません。

「風化させてはならない」ずっと叫ばれてきた言葉です。恐ろしいもので、災害というものは関わりを持たなくなるとすぐに記憶の隅に追いやられてしまいます。ましてや、津波や地震は火事よりも頻度は低いもの。伝えなければいけない相手は、もしかすると次の、さらに次の世代かもしれません。でも、東北はもちろん、枝幸も全く関係のない話ではなく、教訓に還元していかなくてはならないと思います。

 そんな中、今回被災地の現状のフィールドワークを行うという知らせを目にし、「自分には何ができるか」「どうしたら伝えることができるのか」「どうしたら自分の学校や地域の教訓とすることができるのか」という自分なりのテーマを持って、参加させていただくことにしました。学年末を前にして、大変忙しい時期にもかかわらず、参加させていただきありがとうございました。運営等は教職員組合が中心でしたが、組織を問わず様々な先生方が全国から参加されていましたので、何らかの問題提起となることを願いつつ、ここにレポートとして記録させていただきました。

2月25日(土) 「子どもの教育を語る集い」および「被災地の教職員との交流の夕べ」への参加
2月26日(日) 「被災地を訪ねる行動」への参加

2月25日
◆「子どもの教育を語る集い」
 24日は学校が終わってから札幌まで行き、翌25日朝7:45発の飛行機で仙台空港に向かう予定でした。でも、仙台空港は大雪で閉鎖。でも、ここで終わるわけにはいきません!急遽羽田空港に向かい、新幹線に飛び乗り仙台に向かいました。東京の暖かな雨に春を感じながら、さいたまの都会な街並みを見て、田中先生はこんなところで教員をしていたのかーと感心しながら、気が付くと大雪の仙台でした。予定よりも多少遅れての参加となりました。
 東北自動車道も通行止めだったらしく、全国から仙台に向かう先生方も大変苦労されていたようです。全国五十数基の原発のうち、十三基も抱える福井県若狭湾から参加された先生方は、苦しみを味わっている福島県の先生方を助けたいというメッセージを抱えて、雪の中を十名近くのグループで参加されていました。
 特別報告が3つ。陸前高田高校の伊勢先生。(ここには間に合わなかったので、資料のみ)そして、宮城県の東松島市立成瀬第2中学校の制野俊弘先生からの報告がありました。(資料①)制野先生の学校には、翌日のフィールドワークで向かいましたので、後のページで写真を載せております。卒業を祝う会の最中の地震、そして津波。海岸から数百メートルの学校を襲った、その数時間とその後の学校の様子が生々しく語られました。新年度をむかえ、運動会という復活の狼煙を上げ、学校再生にむけて立ち向かっておられる先生方の姿が熱く語られていました。避難所となった学校で再認識した「学校は集いの場」であるということ。学校は地域の結節点であり、学校があるから赴任したのではなく、地域があるから赴任したのだという考えに、多くの人がうなずいておられました。地震時、先生方が真っ先に抱えて逃げたものは、要録や成績ではなく、食料や灯油、布団だったという話、「そのあと必死でUSBメモリをさがしました」ともありましたが、学校の機能というか役割というものを深いところで見つめた話だと思いました。ぜひ、資料にも目を通していただければと思います。
 最後にふくしま復興共同センター放射能対策子どもチームの佐藤晃子さんからの報告でした。遊びたくても外で遊べない子どもたちへの影響(心の影響、体力の低下などを含めて)が語られ、母親である佐藤さんの「子どもにとって、普通の生活をさせてあげたい!」という涙の訴えが続きました。これから先、福島に住み続けられるのか?保護者同士でも『残るのか』『出ていくのか』という、保護者会での腹の探り合いの話があるといいます。原発が国策であったならば、内部被ばくを含め、子どもたちへのフォローを早急に取ってほしいという声も上がりました。
 討議の中でも「震災後から状況は全く変わっていない!どういう状況なのか、全国の皆さんに知ってほしい!」という訴えや、「忘れ去られることが心配」という石巻市長の言葉も伝えられました。

◆「被災地の教職員との交流」
 その後、夜9時ごろまで集まった各地域の先生方からの意見交流が行われました。被災地の先生方が約10名。残りの60名が何らかの形でボランティアに関わった全国の先生方でした。隣に座った先生が那覇の小学校の先生で、出身地が同じ兵庫という偶然の面白さを感じながらも、真剣な議論が続きました。印象的だった言葉を挙げます。
・今のところ、子どもたちは学校ではとても楽しそうにしている。今まで避難所や辛い生活を送ってきているから余計に、友だちと会えることの喜びがあるようだ。でも、心のケアはこれからが大切。教職員も疲れ切って休職される方が増えてきている。(石巻)
・部活後、高校マンガを読んでいた高校生「先生、おれたち学校でしかマンガも読めないし、買うことも出来ないんだよ」との言葉。生きているということの喜びと意味を改めて感じた。(陸前高田)
・「集団移転をして新しい街づくりをしよう」という甘い言葉の裏に、大企業の陰が見える。(福島)
・福島から東京に出た高校生の言葉。「おれたちの街で作った電気を東京の街が使っているのに、何でおれたち東京に来たら嫌われるんだ?」(福島)
・福島県の対応が納得いかず、3人の子ども(小・中・高校生)を仙台の親戚の学校に通わせている。週末は仙台ですごし、平日に福島に戻る生活。とても苦しい。でも、子どもには絶対に放射線を浴びさせたくない。見えない恐怖と戦っている。(福島)
・子どもが(校舎が燃えたことで報道されている)門脇小学校に入学する予定だった。自分も高校の教員。高校生を避難させて、自分の子どもを保育所にさがしに行く途中津波に巻き込まれた。保育所の素早い対応でみんな無事に生きているが、これからの不安と、現状をもっと伝えていかなくてはならないという使命を感じる。(石巻)
・阪神大震災から10年以上経つが、まだまだ「復興」は続いている。「被災者」と呼ばれることに苦しさを感じる。(神戸)
・学校の骨組みが震災を機に見えたという言葉が心に残る。(岐阜)
・まったく報道されていないが、線量は依然高く、放射能の恐怖と戦っている。(茨城)
・ボランティアを通じて、子どもたちのパワーを実感した(大阪)
・広島の何十倍という規模の放射線が今回の事故で出ている。摂取量が何ベクレルとか言っているが、少しだったら良いというわけではない。少しでもダメなもの。DNAを傷つける内部被ばく。細胞分裂のさかんな子どもたちはその影響を受けやすい。それを阻止しなければ。(福島)

書ききれない、まとめきれないくらいの報告が飛び交った。
先生方みんなが、問題意識を持ち、何かの行動をしたいと願っていることが分かる。

翌2月26日
 「震災地」フィールドワーク
 東松島市と石巻市に勤務する先生方にガイドしていただきながら、自分たちがボランティアに入った場所の現状や、先生方が務める学校の状況を教えて頂きました。
 8月に来た時は、信号は全面ストップしており、鉄道もほとんど不通。半年たってもまだ手つかずの壊れた家や打ち上げられた船などが目につきましたが、今回見てみると「表面上は片付いた」という感じ。でも、片づけられただけであり、暮らしが良くなったわけでも、悲しみが消えたわけでもなんでもない状況でした。何枚か新聞記事を用意していただいたのですが、涙が出て最後まで読み切れない記事もたくさんありました…。(資料②)

◆野蒜(のびる)小学校
 朝8時、仙台駅前を出発し、9時ごろ野蒜小学校に到着しました。仙石線(仙台から石巻へのJR線)は、この野蒜付近でまったく復旧の見通しが立っていない状況。8月でもまだ列車が転がっていたのを思い出します。
 この付近は、運河が整備されているため、そこを遡ってきた約10メートルの津波に町が飲み込まれました。地震で避難所になったという野蒜小学校の体育館に入りました。今は無人となっていますが、バスケットゴールの上付近に津波の跡がくっきり残っていました。フロアに避難していた人は渦巻く津波にのまれ、ここで多くの命が失われたといいます。バスケットゴールに捉まったり、何とか2階に逃れた人もずぶ濡れで、氷点下まで冷え込んだ体育館ではすぐに、低体温状態になった話を聞きました。
 私が訪問した日は、晴れていたものの暖房の無い体育館は足元から一気に冷えてきます。着の身着のままで避難して、津波で濡れた体で、どれだけ寒い夜を過ごされたのかと考えると、本当につらさが伝わってきました。この体育館は、すぐに遺体安置所として地域約500名の方々が運び込まれたそうです。
 野蒜で先生が教訓として語られていたこと。「警報が解除される前に、避難所から家に帰ろうとして津波に襲われた人が多い。」「まさか来ないだろうと、思っていた」「避難所であっても、安全な場所ではない」「海岸からの距離ではなく、津波は高度が問題」「カーナビやラジオなど、情報をどうすれば集められるか、考えておかなくてはならない」

◆成瀬第二中学校
次に向かったのは、東松島市の海岸沿いに建つこの中学校。前日に話をしてくださった、制野先生の学校です。時計は津波の3:47で止まっていました。この学校では2階の黒板半分くらいまで津波が通った跡がありました。津波対策として海岸から離れた側に建つ後者は、何メートルか盛り土をした上に建設されていましたが、それでも1階部分はすべて押し流されていました。
津波当日は卒業式。体育館は流れ込んだ濁流と、がれきが渦巻く悲惨な状況だったといいます。いくら泳げても、冷たい瓦礫が渦巻く中では助かることは難しい…。この場で失われた命を考え、辛い気持ちでいっぱいでした。

◆自衛隊松嶋基地(外から)
 ブルーインパルスの基地で有名な場所です。ここも、海岸近くにあるため、演習機を含め約2300億円もの被害が出たそうですが…一般的には報道されませんでしたね。自衛隊の方々や米軍の災害後の活動はすごいものだったという話が出ていました。いろいろなジレンマ(基地がある場所は、学校設備も金銭的な余裕も大きいそうです)を抱え、基地に依存しながら生きている町様子を感じることができました。

◆門脇小学校
 私が夏にボランティアで入った石巻市の南浜地区です。跡形なく更地になった街はすっかり雪に覆われていました。門脇小は、近所の中学校の3階を間借りしながら一クラス50名以上で勉強しているという話でした。門脇小に入学する予定だった平井先生(石巻女子高校)のお子さんと話をしたのですが、「学校楽しいよ。中学校に行ってるの!」と元気に答えてくれました。保育所でお昼寝をしているときに、先生方に叩き起こされ、ワゴン車に詰め込まれ山に避難したそうです。恐ろしい経験をした子どもたちが、この先乗り越えていくにはどうすればいいのだろうと、心配になりました。

◆石巻女子高校
 海岸沿いにある高校です。ほかの学校同様1階部分は完全に流され、体育館は地震と津波で無残な姿になっていました。この学校はあまりにも海から近いため、「避難所」と指定されているのですが、あえてそれを放棄してさらに山側へ逃げたということです。「その判断は懸命だったのかどうか…」と、自問自答される先生方でした。近所の人たちにとっては(特に高齢の方々)、この高校が避難所。だから避難してきたのに鍵がかかっている…。そんな状況の中、生徒を逃がさなくてはならなかった先生方の苦悶が伝わってきました。
 学校のグラウンドは完全に瓦礫置き場になっていました。うず高く積もった瓦礫山。氷点下の寒さでも、夏を思い出すようなすごいヘドロのにおいが山から漂ってきました。これから暖かくなります。さらに害虫の発生やにおいの問題が大きくなります。改めて「問題は全く終わっていないのだ」と感じました。

◆女川市
 最後に住民の多くが亡くなり、町役場などの公的機能がすべて流されてしまった女川市を訪問しました。女川市は、原発も抱える町です。ギリギリ(あと80㎝だったそうです)で津波がかぶらなかった女川原発。でも、この原発も電源5系統のうち4系統がダウンしていたらしく、第二の福島になる可能性が大きかったのです。
町を挙げて高台移転が計画とのことですが、これから用地買収をはじめ、造成、整備…いったいどれくらいの時間がかかるのか先が見えない状況でした。学校は3つの小学校が1つの小学校に同居する形で再開されていました。職員室が3つ…。これを機に、「一気に統廃合」という意見もあるようです。でも、住民や先生方の声を全く入れない計画に反対の声が多くあがっているようです。
 女川市では町の議員さんからも話を聞く機会がありました。そこで出た言葉に「まさかここまでは来ないだろう」がありました。どの町でも同じ言葉が聞かれます。これは、重要な言葉ではないでしょうか?枝幸であっても明治の終わりか大正期に津波が上がったとのこと。「まさか」ではいられません…。

◆おわりに
たった二日の滞在でしたが、今回は学校を中心とした、震災直後から現在の様子を見ることができました。私が見たからと言って、被災地の人々の暮らしが変わるわけではありません。それでもこのレポートにすることで、次の一歩にしたいと願っています。町の現状は思わしくないようです。でも、支援は次の段階に入っています。がれきを取り除き、遺品をさがしていたボランティアから、人が人らしく生きるための手助けへと…。
今回は福島には足を踏み入れることはできませんでした。津波とは全く違う支援が必要な福島。今のところ、自分には何も打つ手はないのですが、小さな声でも集まれば届くはずです。
情けは人のためならずといいますが、ボランティアも同じだとよく思います。今回の活動を通して、被災地を考えながら、枝幸について考えることができました。どう対応するか、どう備えるか、考え伝えていかなくてはならないと思いました。
ありがとうございました。

訪 問 者

カウンター カウンター
全教共済 民主教育研究所
子どもの権利・教育・文化 子ども全国センター
教育子育て 九条の会
九条の会